天才ぴかりんの部屋へ戻る
トップページへ戻る

天才ぴかりん・作

たかがお札一枚のために


ある朝のこと。
彼女が通学する途中にそれは起こった。

毎朝、満員電車にうんざりしている彼女…田螺(たにし)は今日も最寄駅のホームでぼんやり空を眺めていた。
学校は大好きだけど、満員電車は大嫌い。
それでも毎日満員電車に乗るのは、「嫌い」より「好き」の度合いが高いからだ。
見上げていた青い空には、わたあめみたいな雲がもこもこっといくつか浮かんでいる。
その雲と雲の間から、何かうすっぺらいものがひらりと現れた。
ぼーっと見ていると、ひらりひらりと落ちてきて、だんだん大きく見えてきた。
特別視力に自信があるってわけでもない田螺は、ひらひら動くその紙きれが何なのか判断するのに少し時間がかかった。
紙きれの正体は、一万円札だった。
一万円札は、ちょうど通過した電車に吹き飛ばされて、田螺の足元まで来てひらりと静かに止まった。
田螺はその一万円札の端を、飛ばないように足で踏むと、自分の周囲を見回した。
今のところ、誰も田螺の足元にある一万円札には気づいていないようだ。
ここに落ちていてもしかたがないと判断した田螺は、ネコババしようかと考えた。
そして、そっとかがむと一万円札を人差し指と親指でそっとつかんだ。
その瞬間、お札を中心に風がまき起こった。
かなり強い突風で、田螺の髪はパラパラと舞い、服がぱたぱたとはためいた。
とっさに田螺は目をつむった。
少しの浮遊感の後、風は止んで、辺りは静かになった。
田螺はゆっくり目を開けた。

その目の前一面には、緑色の草原が広がっていた。
さっきまでの駅のホームはどこへいってしまったのか。
状況をよく理解できていない田螺は、ぼさぼさになった髪を撫でながら、辺りを見回した。
それから、自分の右手を見ると鞄が、左手を見るとお札をつかんだままになっていた。
上を向くと青空が、遠く、どこまでも続いていた。
広い草原は、見渡す限り草と木と花だらけで、目を細めてみても町やら人やらは見つからなかった。
「なんなんだ、ここは。」
呟いてみるものの、田螺の声は空気に溶けるみたいに消えて、返事はもちろん、何も返ってこなかった。
とりあえず、握りっぱなしの一万円札を綺麗にひらいてみた。
どう見てもただの一万円札にしか見えない。
たまたま誰かの一万円札が風に飛ばされてきただけか。
そう考えると、田螺はこれからどうしようか思案しながら空を仰いだ。
とりあえずお札は、服のポケットに押し込む。
さっきいた場所とは、どこをどう見ても違う。
澄んだ空と、広い草原。おいしい空気。人もいないし建物もない。
それでも、さっきまでいた、混雑している駅のホームとは比べものにならないくらい、素敵な場所だ。
そう感じた田螺は、とりあえず近くの木陰に腰を下ろした。
優しく吹いた風が、さらさらと、田螺の髪をかすめていく。
たまにはこんなのんびりした雰囲気もいいな、と田螺はひと眠りしようと決めた。

適当な木の下に座り、うとうとし始めたとき、前方から凄い速さで人影が近づいてきた。
人影は田螺の目の前でひゅっと止まり、後から追いついた風がふわっと田螺の頬をなでた。
人影の正体は、知らない少年だった。
しかも足が地についていない。少し浮いていたのだ。
少年は怪訝そうな顔の田螺に、にこりと笑いかけると、静かに着地した。
「はじめまして。僕はシナ。あなたは?」
「あ、私は田螺。」
気持ちいい眠りの時間を邪魔されて腹が立ったのと、人がいて言葉が同じことに安心したのとで、田螺は少し複雑だった。
「このくらいの大きさの、一万円札。持ってますよね?」
シナは両手でお札の形をつくってみせて言った。
田螺は頷いて、ポケットからくしゃくしゃになった一万円札を取り出した。
それを受け取ったシナは一万円札のしわをのばしながら言った。
「このお札は、国の重要文化財の一つなんです。ちょっとした事故がありまして、美術館から飛んでいってしまったんですよ。」
そう言い終る頃には、シナの持つ一万円札は、あのしわはどこへやら、綺麗なピン札になっていた。
「さあ、行きましょうか。せっかく来たんですから、美術館くらいは見ていってください。」
シナは、話を聞きながらまた眠ろうとしていた田螺に手を差し出した。
面倒くさそうにその手を見て、田螺が言う。
「美術館って、何があるの?」
「いろんな世界のお金を中心に色んなものが飾られています。お勧めスポットってやつですよ。」
シナが自信あり気にそう言ったので、田螺は少し興味がわいて、シナの手をとった。
すると、田螺とシナの体がふっと浮いた。
「わ。」
田螺が驚いている間もなく、シナはひゅんっと飛んで草原をぬけた。
速いなぁ、これなら100メートル走を5秒以内で走るのも夢じゃないなぁ。と、田螺がそんなことを考えている間に、二人の前方には大きな建物が現れていた。
建物の周りには、民家らしき家々がぽつぽつ建っている。
建物は宮殿のような風貌で、しぼった生クリームみたいな形のこれまた大きな屋根がついていた。
「あれが美術館ですよ。」
シナが田螺の視線に気づき、微笑んで言った。

遠くから見て大きな建物は、近くで見てもやっぱり大きかった。
玄関らしき扉も、3メートルくらいはありそうだ。
横っちょに小窓があって、受付らしき人が一人奥に見える。
シナがその人に挨拶すると、すぐに扉が開かれた。
ギギギ・・・と重そうな音を立てて開いた扉の向こうには、だだっ広い広間があった。
長い廊下が四方に伸びている。
広間とは広い間って書くけれど、これが本当の広間というものなのか。
普通の庶民である田螺は、広さにかなり感動した。
「展示室はあちらです。」
シナは一つの廊下の先を手で示して言った。
「僕は少し寄らなくてはいけないところがあるので、展示室をご覧になっていてください。すぐ戻ります。」
「私もついていくよ。」と言おうとしたが、シナの笑顔に圧力を感じて、その言葉を飲み込んだ。
代わりに頷いて手を振ると、シナは別の方向へ歩いて行った。
田螺も展示室に向かう。
展示室という部屋も、それなりにかなりの広さがあった。
しかし田螺は広さよりも、棚と壁に並んだ様々なお金たちに感動した。
知らないお金がたくさん並んでいる。中にはもちろん知っているものもあった。
緑色のお札とか、青い硬貨とか、紫の石とか、真っ赤な貝とか。
それぞれに説明書きが書かれていたけれど、田螺の見たことも無い文字だった。
それでもめずらしいお金の数々は、きらきら輝いていて、見るだけでもかなり楽しかった。
時間も忘れるくらい見学し続けていると、部屋の奥に、透明な玉が置いてあった。
少し紫がかっていて、ほのかに光を放つその玉は、綺麗だけれど少し妖しげな美しさを持っていた。
説明書きの紙を見ると、何か名前がついているようだが読めなかった。
このとき田螺はなぜか、この不思議な物体の名前をどうしても知りたくて、近くにいた女の子に尋ねた。
「あの、すいません。これ、なんて書いてあるんですか?」
声をかけられた女の子は、田螺を見て、自分を指さした。
田螺が頷くと、なぜかとても困惑した表情になって、展示室内をきょろきょろと見回し始める。
なにかおかしな聞き方をしたかなぁ、と田螺が思っている間に、女の子は田螺の知らない人を引っぱって連れてきた。
それから何か、よくわからないことをぺらぺらっと喋って、田螺を指さす。
連れてこられた当人は、面倒くさそうに、同時に迷惑そうな顔で田螺を見た。
黒髪と、身にまとう黒のローブが、眉間のしわと共に、やる気のなさと威圧感をささやかに伝えている。
そして不満そうに口を開く。
「何かご用ですか。」
「これ、なんて書いてあるんですか。」
「・・・ストリキニーネ。」
「そう、どうもありがとう。・・・綺麗だね。」
ストリキニーネと名づけられているらしき紫の玉と、教えてくれた人物を一瞥して田螺が言った。
「まあ、この国にしかない幻の結晶ですから。」
「それもだけど、あんたもよ。」
「・・・それはどうも。」
ほめている者とほめられている者同士としては、二人とも視線がきつかった。
会話の後も、見つめあうというよりは、冷ややかな睨み合いが続いていた。
女の子が、はらはらしながら二人の顔を交互に見る。
と、そこにシナが歩いてやってきた。
「何してるんですか、二人とも。」
声をかけられて、田螺たちは睨み合いをやめた。
シナを見た女の子は双方にぺこぺこっとお辞儀をすると、素早く立ち去ってしまった。
「あの子、喋れないんですか。」
田螺が女の子の走り去った先を見て、特にどちらに言うわけでもなくつぶやいた。
「そんなわけないだろう。先程、私に話しかけていたのが見えなかったのか。」
「そんな言い方しなくてもいいじゃないですか。」
まったくもう、といった様子で、シナがため息を一つ。
「田螺さん、この方は僕の学友で、ユウといいます。口は悪いかもしれませんが、言葉は通じますから。」
ユウは勝手に紹介されたのが不愉快だったようだ。
無愛想な顔を更にしかめて嫌そうにシナを見た。
シナの連れだったとは知らず、丁寧な対応をして損をしたような気分に一人で浸っていた。
「私は田螺。それで、どうしてさっきの子は言葉が通じないの。」
「ばかじゃないのか」と言おうとしたユウの袖をシナがぐいっと引っぱって制止する。
「世界も国も言葉も違いますから、ほとんどの人が話せません。」
「ふんふん。じゃ、なんであんた達とは話せるの。」
「そんなこともわからないのか」と言いかけたユウのほっぺたをシナがみにょーんと引っぱる。
「この国は語学がさかんで、一人が最低でも8カ国語くらいは話せます。一応他の世界の言葉も選択できるようになっているんです。ユウは日本語の上級コースですから、結構上手ですよ。」
ふーん、と呟いて、田螺は二人を交互に見た。
そっけないあいづちの中に、ひっそり感心の色が混じっていた。
「まあ、別世界の小さな島国の言葉なんてのは、話す機会もないに等しくて人気ゼロだがな。」
頬にくっついたシナの手を払い落として、ユウがにやりと笑って言った。
むっとする田螺が何か反論を思いつく間もなく、シナが笑顔で二人の間に入る。
「またまたユウってば謙遜しちゃって。通訳のお仕事が舞い込んできてるでしょう。」
「そうやって人のことをいちいち暴露するな。」
笑顔のシナと無愛想な顔のユウが話している姿は、少なくとも田螺から見て、仲が良さそうな和やかな雰囲気があった。
会話を聞いているとそうとも思えないけれど、この二人は実は仲良しだろうと、田螺は勝手に思い込んでいた。
そんな二人を見ていると、ふと、さっさと帰りたいような衝動に駆られた。
今が何時なのか、時計を探してみても、見つからない。
そもそも世界が違うらしいし、時計なんてものは信用できなそうだ。
今までのことを振り返ってみても、少なくとも一時間くらいはたっているだろうと推測する。
田螺は自分が学校に行こうとしていたことを思い出し、同時に、無遅刻無欠席無早退を密かに誇ってることも思い出した。
「あー、お楽しみのところ申し訳ないけど、私帰るわ。」
手をあげて言うと、二人が同時に田螺を見た。
「そうか、それはよかったな。早く帰れ。」
「田螺さんがあの草原に来るとき、風が吹きましたよね。」
まったく違うことを言う二人の片方を無視し、田螺は頷いた。
「でしたら風の便ですね。お送りします。」
シナがそう言った直後、館内にホワワーンと間延びした音が響き、シナを呼び出す放送が入った。
それを聞いて、シナは残念そうに肩を落とした。
「すいません、急用ができてしまいました。」
本当にすまなそうにするシナを元気づけるように、田螺は「一人で行けるから」と胸を張って言った。
「行けるわけないだろう。風の便がどこに停まるかもわからない奴が。」
「そう、知らない世界ですし・・・仕方ありませんね。ユウ、僕の代わりに田螺さんを送ってください。」
「なんだと?」
「では田螺さん、お元気で。僕はもう行きますので。」
ユウが断ろうとする暇も与えずに素早く一礼すると、シナはすたすた走って行ってしまった。
「それじゃ、異世界の歩き方がわからなくて一人ではどこにも行けない私を送ってくれるかしら。よろしく。」
自分で墓穴を掘ったユウは、もう何も言うことがなかった。
残された二人の後ろで、ストリキニーネの紫の光が静かに反射していた。

町から少しだけ外れた、広い野原。
来たときとは違う場所に、田螺は立っていた。
横には仏頂面のユウがいて、ほんのり重苦しい沈黙が二人にまとわりついている・・・ような気がする。
ユウが不機嫌なのもよくわかる。
ここに来るまでの間「これからリテアシュア語の授業なのに、遅刻したらどうするんだ」と、わざわざ田螺にも聞こえるようにぶつぶつ言っていたからである。
沈黙を吹き飛ばしてくれそうな風は吹きそうにない。
田螺は適当に話題を探して、一つの疑問に行き当たった。
「質問をしてもいいかな。」
ユウは黙ったまま、田螺をちらりと見て、また広い野原に目を戻した。
「シナもあんたと同じで、日本語上級コースなの?」
田螺の言葉を聞いて、小さくため息をつくユウ。
少し間をおいてから、雲が動かないことを確認して、口を開いた。
「あいつは、私やその他の奴らと違って天才型なんだ。ほとんどの世界のほとんど全ての言葉を操れる。」
「勉強してないの?」
「聞くだけで、理解できるんだとさ。・・・耳の中に翻訳機でも入ってるのかもな。」
空を見つめ、ユウは冗談じみた口調で言った。
田螺も同じように空を見る。はるか上空の雲が、ゆるりと流れた。
「私なんて2カ国語だけでいっぱいいっぱい。そんなのやる暇があるなら、他のことやりたいしね。」
ユウの手があがる。雲の揺れが大きくなった。
「そうだろうな、見るからに努力をしなさそうだ。」
静止していた木の葉が揺れた。野原全体に新しい空気が行き渡る。
「風の便だ。そのまま吹かれていけば帰れるだろう。」
ユウがそう言っている間にも、田螺の足は浮いていた。
「一応言っとくけど・・・ありがとうっ。」
ゴオッという音と共に、瞬く間に田螺は空へ上がる。
ユウの言った別れの言葉も、風の音にかき消されて聞こえなかった。
ローブがはためき、髪がばたばた踊っているのが、空に浮かんだ田螺から見えた。
田螺が見えなくなり、風が止んだ頃の野原に、ぼさぼさになった髪を手ぐしでとかすユウの姿があった。
「暇・・・ね。けっこうあるけどな。」
空を仰ぐと雲の流れは穏やかで、野原にも静寂が戻ってきていた。
しかし、その心地良い静寂は、ひゅんっと飛んできた者によって突然破られた。
「ユウ、仕事だよ。」

はっと顔を上げた。
電車のドアが閉まり、発車するのを、呆然と見送る田螺。
電車が完全に見えなくなってから、駅の時計に目をやった。
7時30分を少し過ぎている。
ということは、たった今行ってしまった電車が、田螺が乗る予定だったものだ。
田螺は首をかしげた。
お札を発見したあのときから、多めに見積もっても5分程度しかたっていないことになる。
でも、さっきまでいたところでは、もっと長い時間をすごしたような気がする。
しばらく考えて、自分の頭をポコポコ叩いてみたが、状況は変わらなかった。
「単なる時差ぼけか。」
呟いて一人で納得する。
とりあえず、次の電車でも学校には間に合う。田螺にとってそれはありがたかった。
風の便で、どうやってここに着いたのかは覚えていない。
かなり高いところまで浮いて、雲に入ってしまうくらいまで浮いたのは記憶にあるけれど、それから先はここにいる。
また自分の頭をポカポカ叩いてみたが、思い出せたのは英語の宿題がまだ終わっていないことくらいだった。
少しの間だけだったけれど、色々あったけれど、結局田螺は楽しかった。
またどこかで会えそうだと、なんの根拠もなく思って、口元を緩ませた。
5分後、田螺は電車に乗って、英語の宿題をちゃんとやろうと思った。
ドアについている窓から外を見る。
ホームを過ぎ去る瞬間に、やたら愛想のいい笑顔の少年と無愛想な黒髪が見えたような気がした。
風が舞い、向かいのホームにも電車がやってきた。
「気づいたかな、田螺さん。」
少し苦笑気味な顔で、少年が言った。
「大丈夫だろう、たぶん。」
黒い髪が風に吹かれてふわりと浮き、無愛想な顔をほんの少し緩ませた。

田螺が駅のホームで空を見上げたり、ホームできょろきょろすしたりするクセができたのは、それからちょっぴり先の話。

< 了 >

ぴかりん物語へ戻る
天才ぴかりんの部屋へ戻る