ある日の午後 |
太陽がさんさんと照る、晴れた午後。雲はほんの少しだけ。
< 了 >
学校の敷地の端から端まで、広い花壇がじゅうたんのように、長く続いている。
一番門に近いところでは、雪柳が真っ白な花を咲かせている。
あちらこちらに伸びた房についている小さな花が、とても可愛い。
その手前には青いサイネリアが、ノースポールと隣り合って植わっている。つぼみもちらほら見える。
他にも、雑草から木まで、色とりどりでにぎやかだ。
花壇の前に、少年が近づいていった。
足どりは軽く、手には水のいっぱい入ったじょうろを持っている。
「おはよう」
笑顔で挨拶すると、花壇に向かって手を振った。
花壇から声がわきおこる。口々に挨拶を返す、高い声から低い声。
しわがれ声も混ざっている。
「おはようございます、密葉さん」
密葉と呼ばれた少年は振り返ると、雪柳に笑いかけた。
そして、おはよう、と改めて言う。
じょうろの水を花壇にまきながら、密葉は咲いている花や草、木々たちと会話をしていた。
水をあげているときは、どの植物も機嫌がいい。
広い花壇の端まで水をまき終えるころには、うすかった雲が消えていた。
「そうやってひとりで話してると、変なやつだな、本当に」
ちょうど、最後のじょうろの水がなくなったとき、後ろから声がした。
同時に砂利を踏みしめるサンダルの近づく音が聞こえる。
「片桐じいさん」
「正解。って、先生と呼べ、先生と」
「だったらオレのことも名前で呼んでいいよ」
振り返って密葉は、部員仲間だろ、とつけ加えた。
「なにが『いいよ』だ。わしゃあ顧問だ、一緒にするな」
言葉のわりに、片桐じいさんの顔は優しかった。
今日も、つばがくねくねした変な帽子と、ご愛用の薄手のはんてんをはおっている。
そのはんてんのポケットに手をつっこんで、片桐じいさんは飴をふたつ取り出した。
片方を密葉に投げる。もうひとつは、自分の口に放り込んだ。
とんできた飴を受け取ってお礼を言うと、密葉も飴をなめた。
「飴なんてなめてる場合じゃないぞ」
「じいさんが出したんだろ」
密葉はじょうろを棚に戻した。
「ところで、花束を忘れたんだけど」
「はあ?」
「花束だよ。春川先輩に渡すやつ。朝に大急ぎでつくって、忘れないように玄関に置いといたのに、持ってくるの忘れた」
二人の間に、微妙な沈黙が流れた。
あはは、と笑う密葉を、片桐じいさんがじろりとにらんだ。
あごのひげを触りながらある方向を指さした。
「そんなことなら気にするな。花ならたくさんあるだろ、そこに」
指の向いた方向に目を動かして、密葉は眉をよせた。花壇だった。
「えー。嫌だよ、花にもうしわけない」
「じゃあ、花束は諦めるんだな。あーあ、せっかく綺麗なリボンを用意したっていうのに」
「ちょ、どこ行くんだよ」
「職員室」
それだけ言うと、片桐じいさんは軽やかな足取りで去っていった。
その背中を見つめ、密葉はため息をひとつ。
風が吹いて、花壇の花を揺らし、木をざわめかせた。
「結局、じいさんは何しにきたんだよ」
つぶやいて、花壇を見つめる。
足元の姫踊子草が、揺れた。
「いいじゃない、花束つくりなさいよ」
密葉が顔を上げる。また下を向いて、姫踊子草を見た。
「花壇のみんなも賛成してるわよ。だって昨日の放課後に」
「姫。それ以上は」
あ、そうだった、と姫踊子草は黙った。
代わりに制止をかけた雪柳が続ける。
「密葉さん、花束を渡したいんでしょう」
「でも…」
「さっさと決めなよ。摘むの? 摘まないの?」
サイネリアが高い声を出した。
ノースポールが相づちをうつ。
しばらく固まっていた密葉は、決心したように頷くと、はさみを取りに棚に向かった。
すぐに戻ってきた密葉は、はさみを手に、雪柳の前に立った。
しかし、一向に作業に入ろうとしない。
「どうしたんですか」
「あのさ、やっぱり摘まれると痛いよな」
「え、ええまあ」
あいまいな返事に、密葉は青ざめた。
「でも、一輪やひと房くらいなら、そんなに痛くありませんよ。髪の毛一本引っこ抜かれる程度です」
「そうよ、怖い映画の見すぎじゃないの。摘まれるたびに悲鳴あげるとか、考えてたんでしょ」
雪柳の言葉にほっとし、姫踊子草の台詞に傷つきながら、密葉は改めてはさみを握った。
刃が太陽の光を反射して、きらっと光った。
密葉はお礼を言うと、雪柳をひと房そっと摘んだ。
花壇の花たちと話をしながら、作業は順調に進んでいた。
一番端の雪柳から始めて、もうすぐ反対の端につきそうだというところ。
まだ花の咲いていない白詰草が、密葉に尋ねた。
「ところでさ、作った花束って誰にあげるの」
「あれ、聞いてない? 春川先輩だよ」
「なんだって!」
密葉が答えたのと同時に、大きな声がした。
びっくりして密葉は、白詰草を余計に切ってしまった。
叫んで謝る密葉を無視し、真っ赤な花をつけた木瓜(ぼけ)はさっきと同じ調子で言った。
「そんなら、俺は協力しないからな。花束なんてつくらなきゃいいんだ」
群れて咲いている姫踊子草が、きつい口調で静かに言い放つ。
「今さらけんかでも売る気なの」
「そういうわけじゃないけど、とにかく花束なんて駄目だ」
「なにか理由でもあるの」
「それは、その…」
木瓜と姫踊子草を見て、密葉はひとりではらはらしていた。
はっきり言って、怒った姫踊子草はとても怖い。
密葉にとっては、そこらのホラー映画を見るより、姫踊子草に怒られることの方が恐怖だった。
もちろん、そんな姫踊子草に勝てるわけなどなく、木瓜は完全に気迫負けし、言い訳も見つからず口ごもっている。
とりあえず仲介をしようと密葉が口を開きかけたとき、しわがれ声が間に割り込んだ。
花はまだ咲いていない桜だった。
「姫、もういいだろう。お前さんが怒るとこわいんだよ。木瓜も、わがままはよせ。どうせ、春川がいなくなるのが嫌だから駄々をこねてるんだろう」
ぱきっと木瓜の小枝が折れた。
密葉は首をかしげる。
「春川先輩が嫌いなわけじゃないんだろ。だったら、花束つくって渡して、喜ばせたらいいじゃんか」
「うるさーい! もう、どうしてそうやって暴露するんだよ、ボケ桜!」
「木瓜はお前だろうが」
木瓜が開き直ったせいで、花壇の花たちが賑やかに騒ぎ出した。
笑い声やら応援やら、もうめちゃくちゃだ。
あまりの騒々しさに耐えきれなくなった姫踊子草が、叫んだ。
たった一言で、花壇中がしん、と静まりかえった。
全員その場で硬直している。もちろん密葉もだ。
その中で、微笑んだままの花がいた。雪柳だ。
「木瓜は、花束さえ渡さなければ、春川さんが卒業しないと思っているんでしょう」
優しい声で、花壇中の空気が和んだ。
その言葉を聞いて、密葉が木瓜を見上げる。
「そうなのか?」
「そうなのかって、違うのか」
「うん。花束を渡そうが渡すまいが、春川先輩は卒業するよ」
間の抜けた声を出した木瓜に頷いた。
「だって、花束渡すのは、お別れ会のときだろ。あ、そうか、お別れ会も阻止すべきなのか」
「いや、だからね。卒業するからお別れ会をするんであって、お別れ会をするから卒業するってわけじゃないんだよ」
密葉の言葉を聞いて、木瓜は更にぽかんとした。
花びらが数枚、はらりと散った。
会話を聞いていた草木たちは、一斉に笑い出した。
「なかなか来ないから、わしが来ちまったじゃないか」
木瓜の小枝を拾った密葉が後ろを向くと、わら半紙と真っ白なリボンを持った、片桐じいさんが立っていた。
笑っている。
密葉の視線に気づき、手に持ったものを見た。
「わしのポケットマネーから出してるからな、文句は受け付けんぞ。もっとも、紙は学校のだからタダだけどな」
ほらよ、と付け加えると、片桐じいさんはリボンと紙を手渡した。
それを受け取ると、密葉は早速花束をつくり始めた。
花や枝は、包みきれないくらいたくさんになっていて、密葉はそれをていねいに束ねていった。
後ろでは、片桐じいさんと花壇の植物たちが見守っていた。
片桐じいさんは一度花壇を振り返ると、密葉には聞こえないくらいの小声で言った。
「ありがとうな、お前たち」
リボンをきつく結んで、花束は無事に完成した。
同時に学校のチャイムが鳴り響く。
「そうそう、忘れてた」
花壇のレンガに腰かけていた片桐じいさんが、立ち上がりながら言った。
手にいっぱいになるくらいの大きな花束を抱えたまま、密葉がおうむ返しにきいた。
「忘れてたって、何を」
「このチャイムで、あいつがここ来ることになってるからな。早く準備しないと、間に合わないぞ」
「そういうことは、もっと早く言えよな」
花束を棚にそっとたてかけると、密葉は、倉庫に向かった片桐じいさんの後を追った。
花壇の前に用意されたのは、白い丸テーブルと、同じく白の椅子が三脚。
片桐じいさんが無断で拝借してきた、うす紫色のテーブルクロスをかける。
「いやー、なんとか間に合ったな」
「佐藤のやつ、遅いな。どこほっつき歩いてんだ」
椅子に腰をおろして言った片桐じいさんの言葉に、密葉は違和感を感じた。
「じいさん、佐藤って誰だよ」
「何言ってる、お前。誰のために花束をつくったんだ」
「春川先輩」
呆れた顔で言った片桐じいさんに、密葉は眉をよせて答えた。
「だから、春川先輩ってのは、佐藤春川のことだろう」
数秒の沈黙。それは花壇も同じだった。
沈黙を破ったのは、密葉と、花壇の者たちの驚きの叫びだった。
「春川って、苗字じゃなかったのか…!」
「何を今さら。花壇の奴らも知らなかったのか? 何年つきあってたんだ、まったく鈍いやつらだな」
「片桐じいさんだって、教えてくれなかったじゃないか」
「まさか知らないとは思っていなかったんでな、ははは」
花壇の面々も、ざわめきだす。
温かい風がふわりと花たちを揺らした。
葉と葉がこすれ合う音と、ざわめき声が重なった。
「はあ、俺、泣いちゃうかもなあ」
「泣け泣け」
「だから、なんですぐそういうこと言うんだよっ」
情けない声をだした木瓜を、桜は楽しそうにひやかした。
それをきっかけに仲良く言い合いを始めたけれど、今回はすぐに静かになった。
そして、一番初めに気づいたのは誰だっただろうか。
花壇のすぐそばで、会話を傍観していた人影に。
「あ、春川さん」
風がやんで、呼ばれた人物がふわりと微笑んだ。
おまけ『ある日の春川さんの放課後』
卒業間近なある日、私はお別れ会に誘われました。
誘ってくれたのは部活の顧問の先生で、みんなからは片桐じいさんと呼ばれている人です。
卒業式より前にお別れとはやってくれますね、と思いましたが、楽しそうなので行くことにしました。
午後五時に、花壇の前に集合。
そんな時間に外でお別れ会をやるなんて、とても度胸がありますよね。
午後五時を知らせるチャイムが鳴ったときに、私はコートを着て、花壇に向かいました。
花壇の前には、テーブルと椅子が用意されていて、大きな花束も置いてありました。
片桐じいさんと後輩の密葉くんが、なにやら楽しそうに話をしていたので、そっと眺めていたのですが、密葉くんが突然私に気づきました。
彼は植物の声が聞こえる、不思議な人でした。
おそらく今も、最初に私に気づいたのは花壇のだれかで、密葉くんはそのだれかから私のことを聞いたのでしょう。
私が椅子にすわると、ふたりとも歓迎してくれました。
実は私の所属するこの部活、顧問が一人、部員が二人という、かなりの少人数で構成されています。
とはいっても、花壇にたくさんの花や木がいますから、あまり寂しくはないですけれど。
密葉くんは、即興の祝辞を述べて、花束をくれました。
花壇の植物たちが包まれた、それはすてきなものでした。
それから、花壇の草花たちからの一言を通訳してくれました。
一番端の雪柳から始まり、口調まで真似て話してくれました。
最後が、木瓜でした。
「春川先輩、木瓜は泣いてしまって、喋れないみたいです」
それを聞いて、私は驚きました。
眺めた木瓜の花は、どこかしゅんとしたように見えました。
「悲しむことはないですよ。会いたければ、毎日でも会いにきますから」
「え」
ぽかんとした密葉くんの顔を見て、私は言いました。
「卒業後に通う学校が、すぐそこなんです。この学校の前も通り道ですし、一生の別れってわけでもないですよ」
私だって、こんな面白い環境を、みすみす手放したくないですからね。
頬杖をついて笑っていた片桐じいさんを見て、密葉くんは言いました。
「知ってたのか、片桐じいさん」
「そりゃあ、そのくらいは知ってるさ」
「いつの間にか、木瓜も泣き止んでるし。もう、なんだよ、笑うなよ」
花壇に向かって、とても慌てた顔を向ける密葉くんがいました。
「人生は、誤解の連続だな」
ぼそっと片桐じいさんがつぶやきました。
「そうですね」
それから、私が毎朝花壇に行くことになったのは、言うまでもありません。