コーンくんの方程式 |
あれは、いつの話だっただろう。
< 了 >
小学生か中学生か。さすがに高校生ではないと思うけど、まあそのうち思い出すだろう。
その頃、私は本当に、どうしようもないくらい苦手だった。
算数とか数学とかいう科目の内容が――。
夕暮れの教室で、少女が机に向かっている。
彼女のほかには誰もいない、静かな教室。
その教室で、ぱき、と小さな音がした。
少女が持っていた鉛筆の、芯が折れていた。
鉛筆をぎゅっと握りしめている手が、震えている。
数式がいくつも書かれた紙が、一緒に揺れた。
頭をフル回転させて考えたし、教科書もプリントも調べた。
それでも、答えがわからない。
悔しくて泣きそうになったとき、誰かの指が机のはしを、ととん、とたたいた。
はっとして顔を上げる。
いつの間に教室に入ってきたのか、若い男性がひとり、立っていた。
室内だというのに、つばがくねくねした変な帽子をかぶっている。
ワイシャツにネクタイ、それになぜか白衣をはおっていた。
「君、名前は?」
そいつは突然、そう尋ねてきた。
少女が黙って見上げていると、くねくね帽子の男は何かに気づいたように、ぽんっと手をあわせた。
「わしは片桐だ。聞いたことあるだろう」
それを聞いた少女は、うーん、と考えをめぐらせる。
そういえばこの間、教育実習生がくるという噂を耳にした。
この人がそうなのかもしれない。
「私は理図(りと)。お兄さん、若いのに『わし』っていうんだね」
「ん、ああ。今からそう言っておけば、年とってから言い方かえる必要ないだろうと思って」
「ふうん」
会話が進展して嬉しかったのか、片桐と名乗った男は笑顔になる。
「じゃあ、理図さん。その問題を一緒に考えようか」
「え、できるの。理科担当じゃないの」
「どうして?」
理図は、ひらひら揺れる白衣を指さした。
「いや、別にこれは。ちゃんとした背広が高いから、もらいものの白衣で代用してるってだけで」
白衣だけでなく、手もひらひらさせて、少し困ったように片桐が笑う。
その様子を見て、理図はため息をついた。
「そんなんで大丈夫なの?」
片桐はきょとんと首をかしげた。
「だって、先生志願者なんでしょ」
「んー、まあね」
理図ははっきりしない答えに、顔をしかめた。
はっきりしないのは、好きではない。
なんだかもやもやした気分になるからだ。
だから、この問題も解かなければ。
理図は紙に目を戻した。
「ふむふむ、苦手は円錐か」
横から問題集をのぞきこんで、片桐がつぶやいた。
「勝手に見ないでよ」
「まあそう言うなって。苦手がわからなきゃ教えられないだろ。計算はバッチリ、図形はメタメタか」
しばらく考え込んで、片桐はポケットから人形を出した。
キーホルダーにできるくらいの小ささだ。
「これは、わしが作った図形おまかせ天才ロボ『コーンくん』だ。こいつを貸すから、今日はもう帰ったほうがいい。遅くなるからな」
理図は窓の外に目をやった。オレンジの光はだいぶ薄くなって、空には藍色が広がっていた。
「いつのまにか、こんな時間」
窓の近くの壁際に掛けてある時計を見て、理図はつぶやいた。
そして振り返ったときには、片桐の姿はなく、机のはしにさっきの人形が置いてあった。
自宅でも理図は机に向かっていた。
結局連れ帰ってしまったあの人形を、机のはしにちょこんと座らせている。
鉛筆で頭をかきながら、人形に目をやる。
「ロボとか言ってたけど、どうやったら動くんだろ」
人形をつっついたり、たたいたりしてみるけれど、何も反応がない。
「おーい、コーンくんだっけ。この問題教えてよう」
学校でも考えていた問題を指で示しながら、話しかけてみたりする。
ピコ、と小さな音がした。
何に反応したのか、コーンくんに電源が入ったようだ。
頭の上の白い円錐に光がともる。
小さな手足が動いて、顔を上げて。
「はじめまして。コーンと申します」
ぎこちない動きでお辞儀をした。
「は、はじめまして。私は理図。よろしくね」
内心ドキドキしながら、理図も頭を下げた。
どんっ。
机に頭をぶつけた。
振動で、コーンくんがよろける。
ぽてっと転んだ先は、理図の答案用紙の上だった。
丁度、理図の頭を悩ませていた円錐の問題の真上だった。
額を押さえている理図に、問題を読み終えたコーンくんは楽しそうに言った。
「この問題ですね。では早速、図形がメタメタなその頭に、しっかりたたきこんでしまいましょう」
理図がコーンくんを起動してから、およそ二時間が経過していた。
「――ですから、三分の一をかけるから、三で割るのと同じなのです」
「うん、それはわかる」
こんな小さな頭に、よくそんな頭脳が入ってるな、と理図は感心しながらコーンくんの説明を聞いていた。
「なんで三分の一をかけるの?」
「それはさっき……ほら、その教科書にも書いてあるじゃないですか。円錐には、円柱に入っていた水のうちの、三分の一だけしか入らないからですよ」
「じゃあ、なんで三分の一しか入らないの?」
「それを理解するのは、今の理図さんの頭では無理です」
「うーっ」
理図は、コーンくんの頭脳をほめたことを少し悔やんだ。
小さくて可愛い外見のわりに、言うことは胸にぐさりとくる。
しかし実際、コーンくんの説明はわかりやすかった。
理図もすらすら問題を解けるようになっていったし、教わるのがだんだん楽しくなっていた。
次の日、理図は学校で片桐を探したけれど、見つからなかった。
その次の日も、そのまた次の日も、校内をくまなく探して、待ちぶせまでしたのに、会えなかった。
片桐に会えない間に、理図は図形のテストで満点をとっていた。
そろそろ教育実習の期間が終るという頃、理図は廊下で白衣を着た人影を見つけた。
「先生!」
追いかけて白衣をつかむと、その人は振り返った。
期待に満ちた目で見上げていた理図は、がっくりと肩をおとした。
違った。
どうしたの、と尋ねてくる先生の白衣を放して、うつむく。
よく見れば、背丈も性別も違っているではないか。
はあ、とため息をつくと、先生が心配そうに理図の顔をのぞきこんできた。
こうなったら聞き込み調査だ、と思い、理図は顔を上げた。
「教育実習生の、片桐先生を探してるんだけど」
そう切り出して、片桐の特徴をあれこれ挙げて、精一杯説明をしてみた。
首をかしげながら聞いていた先生は、最後には首を振って答えた。
「知らないわ。校舎内で帽子に白衣だなんて、そんな実習生はきていないはずよ」
理図はショックを受けた。
そしてすぐに、なんだか胸の中にもやもやしたものがたまっていくような、はっきりしない奇妙な違和感を覚えた。
次の瞬間、理図はお礼も言わずに走り出していた。
戸をいっぱいに開け放って、理図は自分の机に駆け寄った。
放課後の教室には、誰もいない。
ほのかな西日が、机や椅子を照らしているだけだ。
理図は、かばんの中に入れていたコーンくんを出した。
「どうしたんです。今日は満点のお祝いをするんじゃなかったんですか」
コーンくんはそっけない声で言った。
その言葉を無視して、理図は椅子にそっと腰かけた。
まっすぐにコーンくんを見つめる。
「ねえ、片桐先生は、教育実習生じゃないの?」
ぴたり、とコーンくんの動きが止まった。
しばらくしてから、ええ、と短い返事が返ってきた。
「なんでよ、だって――」
抗議しようとして、理図は口を閉じた。
そういえば、教育実習生だなんて一言も言っていなかった。
理図が勝手にそう解釈しただけだ。
「じゃあ、それならなんでここにきたの。なんのためにコーンくんを置いていったの」
声がだんだん震えてきて、理図の目には涙がたまっていた。
「あの人は変わり者でしたから、それはぼくにもわかりません。――わしはただ」
コーンくんの言葉の最後が、あきらかに低くなった。
「理図さんが、図形も算数もできるようになるきっかけをつくってあげようとしただけだ。才能あると思うよ。なんたって、理数系の理に、図形の図、だしな」
それを聞いて、理図はがばっと立ち上がった。
今のは、片桐の声だった。
どこからか見ているにちがいない。
理図は周りをきょろきょろ見回した。
窓際に歩み寄って、空を見渡し、校庭に目を落とす。
「あっ」
くねくねの帽子に白衣を着た人物が、こちらを見上げていた。
窓を開けて呼ぼうとしたけれど、彼はくるりと背を向けて、校門の方に歩き出してしまった。
とっさに追いかけようと窓に足をかけて、ここが三階だということを思い出す。
ためらっている間にも、片桐は校門の外へ出てしまう。
理図は、思い切ってとび降りるほどの勇気は持ちあわせていなかった。
だんだん遠くなる片桐の背中を見つめ、理図はぎゅっとこぶしを握りしめて、叫んだ。
「ありがとうっ!」
その声が届いたのか、片桐はこっちを向いて、手を挙げた。
しかし理図には、その姿が涙でにじんでしまっていて、よくわからなかった。
それでも、笑顔で手を振り返した。
それから数日後、コーンくんは動かなくなった。
電池がなくなったのか、どこかが故障したのか。
原因は未だにわからない。
私にはどうすることもできなかった。
でも、それから先、算数や数学で頭を悩ませることはほとんどなくなった。
コーンくんは、今も私の机の上に、ちょこんと座っている。