騒がしい朝 |
休日。
< 了 >
商店街が賑わうお昼前。
二階の自分の部屋で寝ていた密葉は、耳をつんざくような悲鳴でとび起きた。
「な、なんだ?」
まわりを見回していると、また悲鳴がひびく。
下の階からだ。
密葉は寝巻きのまま階段を駆け下りた。
階下は甘い香りと色とりどりの植物でいっぱいだった。
それもそのはず、密葉の家は花屋をやっている。
草花が多いせいで狭くなっている店内を見回してみると、背の高い観葉植物の間を人の頭がちらっとかすめた。
密葉はサンダルを足にひっかけて、店に出た。
足音で密葉に気づいた悲鳴の主は、植物の陰からばっととび出してきた。
「うわーん、みっつんきてくれたのね! 助けてちょうだい」
両手を広げて駆け寄ってくる女性を、ひょいと避ける。
「か、母さん。――何かあったのか」
「ねねね、ねずみよ、ねずみが出たの! しかもすごく大きなやつ」
「なんだ、ねずみかあ」
密葉の全身から力が抜けた。思いっきり脱力した顔を母に向ける。
「毛虫を指でつぶす母さんが、ねずみが怖いなんて」
「なによう、その言い草。虫は小さいから平気なの」
「だからって、あんな悲鳴あげなくても」
密葉がため息をついた、その瞬間。
彼らの足元を灰色の丸っこいものが、すごい速さで駆け抜けた。
密葉の母が密葉の肩をつかんで盾にして「ひょわあ」とか「へあっ」とか変な悲鳴をあげた。
ごそごそと植木鉢のすき間に入っていくその姿を見て、密葉の体は凍りついた。
「ほらね、大きかったでしょう、ねずみ」
母がおびえた目で訴える。
「……ちょっと待て。あんなでかいねずみがいる訳ないだろ。三十センチはあったぞ」
「だから怖いんじゃない! きっとうちの草花を全部食べ尽くすつもりなのよ」
「そんなばかな」
「じゃあみっつんが退治してちょうだい」
「嫌だ」
ねずみならどうにかしただろうけど、あれはいくらなんでも大きすぎる。
あんな得体の知れないものを退治するなんて、嫌というより、無理だ。
母にしがみつかれて逃げることができず、かといって巨大ねずみを撃退するほどの度胸はない。
密葉は硬直状態に陥っていた。
そこに、明るい声がひびいた。
「ごめんくださーい」
店の入り口に、背の低い女の子が立っていた。
細い小さなおさげに、だぼっとした上着を着ている。
密葉たちの姿を見つけると、笑顔で寄ってきた。
「ほら、お客さんだぞ」
ぽかんとして気の抜けた母をひっぺがして、密葉は女の子を指さした。
母がそっちに目を向けている間に、自分は家の中に戻ろうとする。
「どこ行くの、みっつん」
「寝巻きじゃまずいだろ。着がえてくる」
「そんなこと言って、もし逃げたら怒るんだからね」
「あー、はいはい」
手を振って母を軽くあしらうと、密葉は階段を上っていった。
密葉の母はにこにこと笑みを浮かべて、女の子の方を振り向いた。
「ここ、篝火生花店ですよね?」
突然、女の子が尋ねた。
ふいうちをくらった密葉の母は目をぱちくりさせ、また笑顔になって答える。
「ええ、たしかに昔はそういう名前だったけど。どうして?」
首をかしげる密葉の母。
その足元を、また素早くねずみが走った。
悲鳴が店の外まで届く。
着替え中の密葉は思わず両手で耳をふさいだ。
密葉の母は逃げ回りたい衝動にかられながらも、女の子を守ろうと、仁王立ちになっていた。
ねずみは彼女たちのまわりをぐるぐる走り回って、密葉の母と対峙した。
目尻に涙をにじませながら、震える足を一歩踏み出す。
「なによう、ま、負けないんだから」
女の子をかばいつつ、今にも負けそうな表情でねずみを睨みつける。
その後ろから女の子がひょこっと頭を出す。
床に丸まっている大きなねずみを見て、声をあげた。
「ああっ! ここにいたの、スカルラッティ」
「え……。お知り合いですか」
驚いた顔で振り返る。そこには、笑顔でうなずく女の子。
「おいで、スカルラッティ」
しゃがんで手を広げて呼ぶと、ねずみは素直に女の子の腕にとびこんできた。
女の子がよしよし、となでている。
「ねえ、その子、植物を食い荒らしたりしない?」
女の子はきょとんとしてから、笑って言った。
「大丈夫です。それに、驚かせてすみませんって、謝ってますよ」
密葉の母とねずみの目が合う。
なんとなく、申し訳なさそうな顔をしているように思えた。
そこに、着がえが終わった密葉が下りてきた。
女の子が抱えているねずみを見て、ほっと息をはく。
「そのねずみ、その子のだったのか」
「ねずみじゃありませんよ、モルモットっていうんです」
女の子が顔をあげた。密葉と目が合う。
一瞬の後、ふたりはお互いを指さして「ああーっ」と叫んだ。
あまりに予想外の展開だったからか、密葉は「モルモットにしてもでかすぎる」という疑問を口に出せないままに終ってしまった。
立ちすくむふたりの間で、密葉の母が交互に両者を眺める。
「お友達?」
その問いに、女の子が先に答えた。
「友達というより、ライバルです」
「学校の後輩だよ。どこかで聞いたことある声だとは思ったけど、まさか哀歌だったとは」
哀歌、と呼ばれた女の子は立ち上がると、モルモットを抱えたままぺこりとおじぎをした。
「申し遅れました。浮藻哀歌です」
「あ、こちらこそ。密葉の母の、篝火花恵です」
頭を下げ合って、次に顔を見合わせたとき、ふたりははじめよりどこか親しげだった。
密葉はサンダルをはいてふたりに近づく。
それから、疑問を口にした。
「それで、何しにきたんだ」
「お花を買いにきたに決まってるじゃないですか」
「だって哀歌の家はここから二時間半かかるんだろ。なのに、わざわざ」
哀歌は微笑んで、近くの花に目をやった。
白い花びらがふわりと揺れる。花粉がキラキラ輝いた。
「花たちは」
とんとん、と指先で花びらに触れて、哀歌が言う。
「花も木も、幸せそうですね」
店内を見渡して、哀歌は嬉しそうに笑う。
そんなことを言われて、店員たちが喜ばないはずがない。
密葉と花恵は顔を見合わせて、照れ笑いを浮かべた。
哀歌はモルモットの額をなでながら、ふたたび口を開いた。
「私、世界一幸せな花屋というのに、一度きてみたかったんです」
「ここが世界一幸せな花屋なのか」
「そう。花と会話する花屋なんて、そうはいないし、それに」
密葉が首をかしげた。
「しあわせ屋」
「え」
「この花屋の名前じゃないですか」
哀歌はにっこり満足そうに笑い、そばにあった小さな鉢を指さした。
丸いサボテンの鉢だった。
「この子、ください」
「ええ、でもその前に」
うなずいて、花恵が言った。
「お昼、食べていきませんか」
昼食を食べてトランプで遊んだ後、哀歌はサボテンを手に帰っていった。
見送りに出ていた密葉と花恵は、哀歌の背中が見えなくなるまで手を振っていた。
「なかなかいい子だったわね。でもどうしてライバルなの」
「あー。それは哀歌が自称“話せる女”だからかな」
「へえー」
わかっていなさそうな相づちをうつ花恵。
「俺もひとつききたいんだけど」
「なあに?」
「どうして店の名前、変えたんだ」
「そりゃあ」
花恵は手を口元に持っていって、くすりと笑った。
「花屋なのに篝火なんて、縁起が悪いって言われたからよ」
仰ぎ見た空は、どこまでも高く青く澄んでいた。
その空になじむように溶けこむように、届くように、花恵の声はひびいた。
「花たちにね」